島田木材協同組合

島田木材協同組合

島田木材協同組合について

あいさつ

“住んでよし、心豊かな木の住まい”をスローガンに

私達、島田木材協同組合は静岡県の中部を流れる大井川の流域にある島田市及び川根本町、吉田町の木材業者により構成されております。
当地区は大井川の水運を生かし、中上流域の豊富な木材資源を江戸時代より利用を始め、明治時代以降現在に至るまで有力な地場産業として島田市のもの作りの原点を支えてきました。(詳しくは後掲の「島田市の木材発展の歴史」をご覧ください。)

戦後、我が国の都市開発はコンクリート中心に進められてまいりましたが現在は環境に優しく美しい素材としての木材が見直されております。
特に教育施設や老人保養施設、温浴施設等に使用されるケースが増えています。

私達は“住んでよし、心豊かな木の住まい”をスローガンに木材PR活動を続けてまいりましたが、是非皆様にはそんな木材に触れ合う機会をより多く持って頂き、やすらぎの時間と空間を感じて頂ければ嬉しく思います。

島田木材協同組合

島田木材協同組合について

名称 島田木材協同組合
所在地 島田市栄町4-19 木材会館クラシカ801号
TEL
FAX 0547-36-4123
E-MAIL shimadamokuzai@bronze.ocn.ne.jp
理事長 川村右介
形態 主に島田市、川根本町及びその周辺地域で直接的、間接的に木材に係わる事業者によって構成されています。

沿革

明治19年 大井川沿岸木材組合発足
明治37年 大井川材木商同業組合に
昭和25年 島田木材協同組合となり現在に至る

組織図

組織図

取り組み

工業セミナー工業セミナー
島田商工会議所と共催し有識者を招いての講習会の開催。
原木見学会原木見学会
原木市場近隣の小学校の見学を受け入れて、組合員による木材の説明を行う。
産業まつり産業まつり
島田市産業祭に参加。木工作コーナーのトンカチ号の出展と木材のPR活動を行う。
労働安全講習会
労働基準監督署の担当官を招いての労働安全講習会の開催。
金融懇談会
市内の金融関係者を招き勉強会の開催。
委員会活動
総務、安全、木都島田PR、ビル管理、素材部会の各委員会を開催。

島田市の木材発展の歴史

~江戸時代~

  • ~江戸時代~
  • ~江戸時代~

「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に…」みなさんも聞いた事あると思います。
ここで出てくる柴刈りとは山野に自生する小さな雑木を刈り取ったり拾ったりする作業のことです。
柴は薪として利用したり、売ったりしました。電気、ガス、石油の無かった時代、人々は日常生活の中で色々な形で木材を利用して山と里の繋がりが近い関係にありました。
日本昔話にもあるように古来より日本は林業がとても盛んな国でした。
この島田市も例外ではなく、特に江戸時代に入り盛んとなり、伐採された木材を大井川に流し、運ばれた記録があります。
その記録によると紀伊国屋文左衛門に代表される江戸や駿府の豪商たちが、幕府御用達の木材として、江戸城や駿府城、浅間神社などの神社・仏閣、公共事業であった橋などの材料として使われたそうです。 この江戸時代は、今のような近代的な機械や道具などは無かったため、伐採作業は人力で動かす大きなノコギリなどに頼って行いました。伐採した後は、平な林道では木馬(きんま)とよばれる木製の大きなそりに、木材を積み上げた人が綱で引っ張り、大井川まで山を下ったそうです。
伐採した土地があまりの急斜面で、木馬を使えない場合は、修羅と呼ばれる方法をとりました。この修羅は伐採した木材を利用する運搬方法で、これは斜面の窪んでいる部分を利用して伐った木材を並べてハーフパイプのようの様な滑り台を作り、その上に他の木材を滑らせて下ろしてきました。下ろした分の木材を、また同じように並べ、上にある木材をまた滑らせて下ろす。この作業を繰り返し、木材を大井川まで下してきました。
その木材を川に流して運搬することを「川狩り」と呼びます。大井川の川狩りは特徴的でした。隣の天竜川や安倍川などは切った木材で筏(いかだ)をつくり流してきましたが、大井川では筏ではなく一本ずつバラバラで流す「管流し」という方法で川狩りを行いました。
こうして集められた木材は、現在の島田市・向谷に集積され、向谷水門や木屋水門をとおり現在の小川港から江戸に運ばれました。

~明治~大正~

  • ~明治~大正~
  • ~明治~大正~

明治3年、川越制度が廃止になり渡船が可能になりました。その翌年には、大井川の川狩りも、筏流しが解禁となりましたが、天竜川や安部川などの流送とは違って、筏流は江戸時代に川越制度により禁じられていたので、あまり発展しませんでした。
明治30年頃には、少ない沢水を溜める堰を造りそこに木材を運び込み、水が溜まったら一気に放出させ木材を本流まで運ぶという「鉄砲出し(流し)」の方法が取り入られました。この方法は、昭和40年代まで続けられました。
明治以降の川狩り作業は、白木は筏流しで黒木は管流しで行っていました。
川狩りの着材所は、向谷水神山の東側付近で、渇水期に木材を組み、堰を造り、水を溜めて川狩り材を集めました。そして向谷水門から水路をとおり貯木場へと送られました。向谷にあった木材集積所からは向谷水門や木屋水門がありましたが、輸送能力が低い為、陸揚げをして荷車で運んだそうです。
このころになると、御用材の需要がなくなり、サワグルミやシラベを原材料としたマッチの木軸生産する製材業が盛んとなり、これを兼業として行う木材業者が増えてきました。その他にも、茶箱などを作る製函業ができるなど、木材関連業者が増えてきました。
島田市の木材業界発展に更なる追い風となったのは、それから20年後の1891年(明治22年)、現在からは、約130年前の事です。主な輸送手段であった海運から、陸路に変わりました。東海道線開通です。島田駅を基点に陸路での交通輸送が確保され島田市の木材産業が急速に発展していきます。
それから7年後、向谷の木材集散地も、大倉組という材木業者が貯水池をつくり、更に多くの木材が運びこまれる様になりました。
この大倉組は横井に木材チップを使用した製紙会社を設立しました。ここは現在の新東海製紙になります。
その翌年には島田軌道という会社が設立され、トロッコ運搬で向谷と島田駅、約2.9キロが結ばれ、この向谷地区に木材の一大集散地ができあがりました。
それから明治の終わり頃には30社以上の木材関連業者ができ、大正に入ると60社まで増えていきます。多くの木材業者は製材業や製函業を兼業し、材木以外にも木材加工で栄えてきました。昭和6年12月には大井川鉄道によって金谷-千頭間が開通し、川狩りから陸路や鉄道での運搬に代わっていきました。

~昭和~現在

  • ~昭和~現在
  • ~昭和~現在

昭和23年島田町は市政を敷きます。
「豊かな山の恵み 木遣歌(きやりうた)のどかに晴れて」と島田市歌に歌われ、水運から軌道によって運ばれた木材は、戦後復興期の島田の最大かつ主要な産業として成長しました。
昭和40年代、市内での木材・製材・木製品製造業者は400社を超えます。それら業者は木材の販売、製材と共に木製品製造業として、製函、家具、ハンガー、フローリング、下駄、空板、木製玩具など島田のもの作りの原点を支えていきました。 「ふれあい、ぬくもり、木のおもちゃ」 をコピーにカタカタは全国の8割の生産を誇り、そのほかの木製品もそのほとんどが全国のトップシェアーを誇っていました。また、建築用材としての評価も高く、長尺材が得意な地域として関東・静岡県内を中心に多くの木材が住宅などに使われてきました。特に、通し柱、木柱(電信柱)などは大井川材の大きな魅力の一つでした。
こうして島田市の産業は木材関連業の発展と共に歩んできました。
昭和39年、木材の輸入が自由化され、輸入材の増加により木材の自給率は平成12年に18%まで下落しました。
一方、現在の大井川上流の山では戦後植林された木が成長し、森林が育っています。
林業行政は、育林から木材の利活用へと政策が変わり、平成22年10月1日には「公共建築物等木材利用促進法」が施行され、コンクリートから木へと時代が変わり始めています。島田市内でも静岡空港内や、ふじのくに茶の都ミュージアムなどを代表例として公共施設を中心に木材の新しい使い方を見ることが出来ます。国は木材自給率の目標を、平成32年に50%以上と掲げ、合板・CLTなどの新たな製品の普及や、燃料として木材バイオマスの利用促進など新たな製品分野への木材利用に取組んでいます。
私達が生まれ、育ったこの町は多くの木材に囲まれ、木の恵みとともに産業と文化が生まれてきました。その歴史に新しいページを増やしていく事が「木都島田」復活への挑戦であり、使命であると考えています。